一番幸せな日の再更新
2006年2月4日幸せであるというのは非常に怖い状態だ。
なぜなら、次はそれより幸せではない可能性が高いから。
後は下り坂もしくはまっさかさま。。。かもしれない。
幸せでない状態も怖い状態だ。
それがずっと続くかもしれないから。
どっちも結局怖いのだ。
でも、私には幸せであるときの怖さの方が怖い。
もうこれ以上幸せはないだろう。。と思ってしまう。
もっといいことがあるに違いにない。とか
もっと幸せになろう。
とか、
思えない。
それが性格なのか、病気かといえば、
病気のせいだと思う。
なぜなら、若いころから幸せは自分で作るもの。。
と幸せになる努力をできる性格だったから。
でも、皮肉なことに、
そう頑張っている間は幸せを感じることはなかった。
結婚にいたっては、不幸のどん底でしかなかった。
出産、育児も辛い、しんどいだけだった。
かわいいというより責任ばかりしか考えられなかった。
おそらく世間の普通の目で見たら、
うちの家族はそれなりに幸せそうに見えるんだろうな。。。と思う。
きっと客観的にみたら、そうなんだろうと自分でも思う。
金曜、土曜。。
私の生きている中でもっとも幸せな日になった。
そのことをとても神様と彼に感謝。
私は会社でも、友達の中でも、家庭でも、いつも若いころからお母さんの存在。
いつも何でもしてあげる人。 だった。
今の会社でも、若い女の子からも
みゆぼえさんは会社のお母さんみたいですよね。
といわれる。
それは本来の私の姿ではない。
もちろん、してもらうよりしてあげることに喜びを感じる性格ではある。
でも、惚れた理由もなんとなく改めてわかった。
手放しで、無防備でいても
私を守ってくれる人。
病気だから、何にもできない。
だけどしてくれるのは病気だからではないんだろうな。
たとえ、健康でもしてくれる人なんだろうと思った。
今、夫も私の身の回りのことはすべてしてくれる。
しんどくてお風呂に入れなければ、洗ってもくれる。
(最近はめったにないけど)
でも、それは仕方なくやっている。
病気だから、、、仕方ないと。。。
よく考えれば、今まで自分はすべてのことをやってもらっていた。それを当たり前だと思っていた。だから、今は病気で出来ないなら仕方ない。。。と。
それがすごく分かる。
とても感謝はしている。
でも、だからといってこんなに何もかもできなくなるほど、20年ほどの間に心をずたずたにした事実は許してはいるけど、なくなるわけではない。
だから、感謝もしているし、早く治って何かをしてあげたいとは思うけど、男性として好きにはなれない。
TOO LATE なんだ。。
また惚れ直すことがあった。
子供への教育というか、親の責任。
子供が何をして、どういう風に過ごして人生を生きたいのか、分かるまで一緒に探してやること。
それは押し付けでもなく、親のものさしでもなく、
引き出してやること。
生きることへの興味というか、食べたいとか、何がしたいとか、何かを思わせてやること。。
それが大事なんだな。
それを見つけられるようにいっぱい会話して、一緒に過ごして、見つけられるように一緒に頑張ってやる。。
同じようなことをしていても、着眼点ですごく違うなあ。。
と思った。
そういうとこが好きなんだなあ。。。と思った。
もちろん、いろんな面を総合的に見てるんで、盲目になってる訳じゃないですよ。。
少し重たいことも話した。
触れないで、表面だけで付き合うのが筋なんだろう。。とは思うけど。。
そんなに賢くは出来ない。
今は今度、いつ会おうか、、どうやって過ごそうか、
何が食べたいか、何を話したいか、
そんなことをワクワク考えられる自分に少しでもなろうと思えることが、
それで一番いいのだと思っている。
死にたい君は近寄ってはこないから。。。
私は死ぬことが怖いのではない。
私が怖いのは
自分で自分を殺すこと。
それによって、周りの人に及ぼすだろうことが怖いのだ。
もちろん、誰でも自殺する可能性はある。
でも、思っているより自分で自分を殺すという行動に本当に移せるかどうかというのは大きな壁がある。
それを簡単に越える自分は本当に恐ろしい。
後で考えても、なぜあの時そうしたか、、、
自分のことなのに、分からないのだ。
コントロール不能。
それを共感してもらうことは出来ない。
共感できるということは、あまりいいことではないのかもしれない。
共感できないから、客観的な意見が言えるのだろう。
だから、悲しく、辛く思うことはない。
なのに、ある瞬間には分かって欲しいと思う。
今は純粋に恋愛をしていようと思う。
もっともっと幸せになれるように
幸せを与えられるように
今日を懸命に生きて、
明日を楽しみに出来るのだから
絶望ではないのだから。
あまり深く考えないようにしようと思う。
イエス様、どうか私から奪わないでください。
なぜなら、次はそれより幸せではない可能性が高いから。
後は下り坂もしくはまっさかさま。。。かもしれない。
幸せでない状態も怖い状態だ。
それがずっと続くかもしれないから。
どっちも結局怖いのだ。
でも、私には幸せであるときの怖さの方が怖い。
もうこれ以上幸せはないだろう。。と思ってしまう。
もっといいことがあるに違いにない。とか
もっと幸せになろう。
とか、
思えない。
それが性格なのか、病気かといえば、
病気のせいだと思う。
なぜなら、若いころから幸せは自分で作るもの。。
と幸せになる努力をできる性格だったから。
でも、皮肉なことに、
そう頑張っている間は幸せを感じることはなかった。
結婚にいたっては、不幸のどん底でしかなかった。
出産、育児も辛い、しんどいだけだった。
かわいいというより責任ばかりしか考えられなかった。
おそらく世間の普通の目で見たら、
うちの家族はそれなりに幸せそうに見えるんだろうな。。。と思う。
きっと客観的にみたら、そうなんだろうと自分でも思う。
金曜、土曜。。
私の生きている中でもっとも幸せな日になった。
そのことをとても神様と彼に感謝。
私は会社でも、友達の中でも、家庭でも、いつも若いころからお母さんの存在。
いつも何でもしてあげる人。 だった。
今の会社でも、若い女の子からも
みゆぼえさんは会社のお母さんみたいですよね。
といわれる。
それは本来の私の姿ではない。
もちろん、してもらうよりしてあげることに喜びを感じる性格ではある。
でも、惚れた理由もなんとなく改めてわかった。
手放しで、無防備でいても
私を守ってくれる人。
病気だから、何にもできない。
だけどしてくれるのは病気だからではないんだろうな。
たとえ、健康でもしてくれる人なんだろうと思った。
今、夫も私の身の回りのことはすべてしてくれる。
しんどくてお風呂に入れなければ、洗ってもくれる。
(最近はめったにないけど)
でも、それは仕方なくやっている。
病気だから、、、仕方ないと。。。
よく考えれば、今まで自分はすべてのことをやってもらっていた。それを当たり前だと思っていた。だから、今は病気で出来ないなら仕方ない。。。と。
それがすごく分かる。
とても感謝はしている。
でも、だからといってこんなに何もかもできなくなるほど、20年ほどの間に心をずたずたにした事実は許してはいるけど、なくなるわけではない。
だから、感謝もしているし、早く治って何かをしてあげたいとは思うけど、男性として好きにはなれない。
TOO LATE なんだ。。
また惚れ直すことがあった。
子供への教育というか、親の責任。
子供が何をして、どういう風に過ごして人生を生きたいのか、分かるまで一緒に探してやること。
それは押し付けでもなく、親のものさしでもなく、
引き出してやること。
生きることへの興味というか、食べたいとか、何がしたいとか、何かを思わせてやること。。
それが大事なんだな。
それを見つけられるようにいっぱい会話して、一緒に過ごして、見つけられるように一緒に頑張ってやる。。
同じようなことをしていても、着眼点ですごく違うなあ。。
と思った。
そういうとこが好きなんだなあ。。。と思った。
もちろん、いろんな面を総合的に見てるんで、盲目になってる訳じゃないですよ。。
少し重たいことも話した。
触れないで、表面だけで付き合うのが筋なんだろう。。とは思うけど。。
そんなに賢くは出来ない。
今は今度、いつ会おうか、、どうやって過ごそうか、
何が食べたいか、何を話したいか、
そんなことをワクワク考えられる自分に少しでもなろうと思えることが、
それで一番いいのだと思っている。
死にたい君は近寄ってはこないから。。。
私は死ぬことが怖いのではない。
私が怖いのは
自分で自分を殺すこと。
それによって、周りの人に及ぼすだろうことが怖いのだ。
もちろん、誰でも自殺する可能性はある。
でも、思っているより自分で自分を殺すという行動に本当に移せるかどうかというのは大きな壁がある。
それを簡単に越える自分は本当に恐ろしい。
後で考えても、なぜあの時そうしたか、、、
自分のことなのに、分からないのだ。
コントロール不能。
それを共感してもらうことは出来ない。
共感できるということは、あまりいいことではないのかもしれない。
共感できないから、客観的な意見が言えるのだろう。
だから、悲しく、辛く思うことはない。
なのに、ある瞬間には分かって欲しいと思う。
今は純粋に恋愛をしていようと思う。
もっともっと幸せになれるように
幸せを与えられるように
今日を懸命に生きて、
明日を楽しみに出来るのだから
絶望ではないのだから。
あまり深く考えないようにしようと思う。
イエス様、どうか私から奪わないでください。
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