伯父の通夜に行きました。
2004年3月6日 つれづれのことこの日記にも年末に伯母が亡くなった話は書いたのですが、そのとき、両脇を抱えられて、息をするのもしんどそうな伯父が何とも言えぬ表情で伯母の遺影を見つめていました。
順番からすると伯母の方が上なので、先に行ってもしかたないのでしょうが、肺がんで余命いくばくもない伯父からすると外国にも行き、毎日飛び歩いて元気一杯の伯母の突然の死は
「なんで、わしより先に行くんや」
という思いで見つめていたのでしょう。
土曜日が葬儀だったのですが、すでに予定が一杯で、それを日曜に回したりすると休養が全く取れず、えらいことになると思い、葬儀は失礼して通夜に行かせて頂きました。
伯父さんお見送りできなくてほんとにごめんね。
ほんでもうつの人間にとって、お通夜はこたえました。
健常な人がちょいとしんどいなとか面倒だな、なんて感じる事はうつの人間にはまず無理な事だと理解していただけるとありがたいです。
別に何がどうということもないんですけど、親戚がたくさん集っていて従姉妹の悲しみを思うと本当に涙があふれ出て、そういう心の動きはものすごくこたえます。
もし、あなたが「やる気になればチョモランマに行ってスキーで滑り降りることも出来るはずだ」と言われたら、確かにそうかもしれない。
やる気さえあれば…。仮に出来たとしても遭難して二度と帰って来れないかもしれないし、骨折するかもしれない。
まして平然とまた日常にすぐに戻ることなんてできないはずです。
そのレベルが物凄く低いところでうつの人間は限界点を感じるのです。
だから、「やる気が無い」なんて片付けられると言われてる方は無茶いうなよ。と途方にくれるのです。とほほ。
この2月、日記を読んでくれてる方はご存知だと思いますが、自殺未遂で入院しておりました。
そのとき、伯父は「生きたい」と必死に病気と闘っていたのだと思うと何とも伯父に申し訳なく、両親にも回りの全ての人に申し訳なく、
自責の念にかられておりました。
クリスチャンは他宗教の儀式を行いません。
ですが、お焼香をお断りする事は未だ出来ません。
普通にお焼香をして、手を合わせます。
でもそれは伯父に手を合わせているのではなく、イエス様に
「どうぞ、伯父を天国に入れてあげてください。」
という祈りで手を合わせているという非常に中途半端な人間です。
ま、洗礼を受けてるわけではないのでクリスチャンではないのですが。
従姉妹とは殆ど年齢が変りません。
だから、人事ではありません。
大人になると従姉妹との付き合いもさほどあるわけではありません。
会うのは大抵葬儀や法事です。
それでもその悲しみは私の想像をはるかに越えるものだと思います。
恐ろしさすら覚えます。
というわけで実家に通勤帰りに車で寄り、母の車に同乗して行ったので私の車は実家に置いてきぼり。
ほんまは実家からまた乗って帰るべしでしたが、ひどい疲労でとても運転など出来る状態ではなく、母に自宅まで送ってもらいました。
お坊さんのお話はありがたいものであれば、自分の行き方や生活に反映していきたいと思うのですが、
お経の話をされて、お経は中国の「音」で読んでいる。
その「音」であることに意味がある。
そしてそれを必死に祈りを込めて言う事に意味があるといわれていました。
文芸春秋の中でとある先生が、現代の教育について漢字が減らされたのは嘆かわしい。漢字とは意味があり、常用漢字に制限すると本来の意味が分らないことになる。とか、
漢詩などを暗誦するのには意味がある。
そもそも初めから全てを分ろうとするのはおかしくて最初は訳わからんでも丸覚えして、そこから徐々に本来の意味を生活の中でああそういうことかと分っていくものだ。
というようなことを書いておられた。
概ね賛成でありんす。
英語も国語も漢詩も言語というものはそういうものだと思うのです。
学校の先生がおられたら気を悪くするかもしれないが、客観的に見て教師の質は悪すぎです。
更新制度にしたらどうでしょう?
教える者はまず、自分が勉強するところから始めねばです。
サラリーマン根性ではダメやと思うのです。
別に型にはまった教師じゃなくていい。というかその方がいい。
でも、限度があります。何事も。
雨降ったら学校に行かないような教師は辞めてもらいたい。
子供に媚をうることをしすぎです。
早く大人になりたいな。
そう思う子供時代にしてこそ、人間大人になろうとするのです。
今のように子供のままでいたい。
30になっても40になっても子供のような奴。
許せません。
子供のような心を持っているのはいいんです。素晴らしい事です。
でも子供のような振舞はTPOを考えられない人間はすべきではありません。
っと偉そうに言っちまいましたが、そう思います。
伯父さん、葬儀に行けなくてほんとにごめんね。
もう、苦しまなくていいんだから、ゆっくりイエス様のもとで休んでください。伯父さんは真面目すぎたんだよ。
私も同じ血が少し流れてる。
ケセラセラは何か実感がない。
Let it be
の方が私らしい気がする。
流されて生きていこう。
今、今日を大切に。
それより先は神様任せで。
とりあえず、3日分の日記を書かねば。
順番からすると伯母の方が上なので、先に行ってもしかたないのでしょうが、肺がんで余命いくばくもない伯父からすると外国にも行き、毎日飛び歩いて元気一杯の伯母の突然の死は
「なんで、わしより先に行くんや」
という思いで見つめていたのでしょう。
土曜日が葬儀だったのですが、すでに予定が一杯で、それを日曜に回したりすると休養が全く取れず、えらいことになると思い、葬儀は失礼して通夜に行かせて頂きました。
伯父さんお見送りできなくてほんとにごめんね。
ほんでもうつの人間にとって、お通夜はこたえました。
健常な人がちょいとしんどいなとか面倒だな、なんて感じる事はうつの人間にはまず無理な事だと理解していただけるとありがたいです。
別に何がどうということもないんですけど、親戚がたくさん集っていて従姉妹の悲しみを思うと本当に涙があふれ出て、そういう心の動きはものすごくこたえます。
もし、あなたが「やる気になればチョモランマに行ってスキーで滑り降りることも出来るはずだ」と言われたら、確かにそうかもしれない。
やる気さえあれば…。仮に出来たとしても遭難して二度と帰って来れないかもしれないし、骨折するかもしれない。
まして平然とまた日常にすぐに戻ることなんてできないはずです。
そのレベルが物凄く低いところでうつの人間は限界点を感じるのです。
だから、「やる気が無い」なんて片付けられると言われてる方は無茶いうなよ。と途方にくれるのです。とほほ。
この2月、日記を読んでくれてる方はご存知だと思いますが、自殺未遂で入院しておりました。
そのとき、伯父は「生きたい」と必死に病気と闘っていたのだと思うと何とも伯父に申し訳なく、両親にも回りの全ての人に申し訳なく、
自責の念にかられておりました。
クリスチャンは他宗教の儀式を行いません。
ですが、お焼香をお断りする事は未だ出来ません。
普通にお焼香をして、手を合わせます。
でもそれは伯父に手を合わせているのではなく、イエス様に
「どうぞ、伯父を天国に入れてあげてください。」
という祈りで手を合わせているという非常に中途半端な人間です。
ま、洗礼を受けてるわけではないのでクリスチャンではないのですが。
従姉妹とは殆ど年齢が変りません。
だから、人事ではありません。
大人になると従姉妹との付き合いもさほどあるわけではありません。
会うのは大抵葬儀や法事です。
それでもその悲しみは私の想像をはるかに越えるものだと思います。
恐ろしさすら覚えます。
というわけで実家に通勤帰りに車で寄り、母の車に同乗して行ったので私の車は実家に置いてきぼり。
ほんまは実家からまた乗って帰るべしでしたが、ひどい疲労でとても運転など出来る状態ではなく、母に自宅まで送ってもらいました。
お坊さんのお話はありがたいものであれば、自分の行き方や生活に反映していきたいと思うのですが、
お経の話をされて、お経は中国の「音」で読んでいる。
その「音」であることに意味がある。
そしてそれを必死に祈りを込めて言う事に意味があるといわれていました。
文芸春秋の中でとある先生が、現代の教育について漢字が減らされたのは嘆かわしい。漢字とは意味があり、常用漢字に制限すると本来の意味が分らないことになる。とか、
漢詩などを暗誦するのには意味がある。
そもそも初めから全てを分ろうとするのはおかしくて最初は訳わからんでも丸覚えして、そこから徐々に本来の意味を生活の中でああそういうことかと分っていくものだ。
というようなことを書いておられた。
概ね賛成でありんす。
英語も国語も漢詩も言語というものはそういうものだと思うのです。
学校の先生がおられたら気を悪くするかもしれないが、客観的に見て教師の質は悪すぎです。
更新制度にしたらどうでしょう?
教える者はまず、自分が勉強するところから始めねばです。
サラリーマン根性ではダメやと思うのです。
別に型にはまった教師じゃなくていい。というかその方がいい。
でも、限度があります。何事も。
雨降ったら学校に行かないような教師は辞めてもらいたい。
子供に媚をうることをしすぎです。
早く大人になりたいな。
そう思う子供時代にしてこそ、人間大人になろうとするのです。
今のように子供のままでいたい。
30になっても40になっても子供のような奴。
許せません。
子供のような心を持っているのはいいんです。素晴らしい事です。
でも子供のような振舞はTPOを考えられない人間はすべきではありません。
っと偉そうに言っちまいましたが、そう思います。
伯父さん、葬儀に行けなくてほんとにごめんね。
もう、苦しまなくていいんだから、ゆっくりイエス様のもとで休んでください。伯父さんは真面目すぎたんだよ。
私も同じ血が少し流れてる。
ケセラセラは何か実感がない。
Let it be
の方が私らしい気がする。
流されて生きていこう。
今、今日を大切に。
それより先は神様任せで。
とりあえず、3日分の日記を書かねば。
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